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寺内正毅の生涯のこと

寺内正毅のまじめな話。実は知らないことばっかりでした。
凄い偉業を成し遂げた人だったんですね。

現在の山口市に長州藩士 宇多田正輔の三男として生まれ後に母方の寺内家を継いだ。1868年、御盾隊隊士として戊辰戦争に従軍し、箱館五稜郭まで転戦した。その後陸軍士官として累進し、西南戦争で右手の自由をなくした。そのため、このとき以降、実戦の指揮を執ることはなく、軍政や軍教育の方面を歩んだ。フランス留学後、陸軍士官学校長、教育総監、参謀次長などを勤め、第1次桂内閣(1901年6月2日 - 1905年12月21日)が成立すると陸軍大臣となり、日露戦争の勝利に貢献した。第1次西園寺内閣や第2次桂内閣(1908年7月14日 - 1911年8月25日)でも再び陸相をつとめた。

1909年10月26日ハルビンにおける伊藤博文暗殺後、第2代韓国統監曽禰荒助(在任: 1909年6月14日 - 1910年5月)が辞職すると1910年5月30日陸相のまま第3代韓国統監となり、1910年8月22日の日韓併合を断行した。1910年10月1日朝鮮総督府が設置されると陸相を辞任して初代朝鮮総督に就任し、武断政治によって朝鮮支配を確立した。朝鮮総督は天皇にのみ直隷し、朝鮮における軍事権、立法権、行政権、司法権を掌握する絶大な権限をもち、寺内は憲兵に警察を兼務させる憲兵警察制度を創始した。むき出しの軍事力による支配が武断政治の要諦であった。

1916年10月16日総督を辞任し、1916年10月19日には内閣総理大臣に就任、寺内内閣を組閣。朝鮮総督としての功績を認められてのことである。寺内の頭の形がビリケン人形にそっくりだったことから、これに超然内閣の「非立憲(ひりっけん)」をひっかけて「ビリケン内閣」と呼ばれた。時は第一次世界大戦のさなかであり、寺内首相は1918年8月2日シベリア出兵を宣言したが、米騒動の責任をとって1918年9月21日総辞職した。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2007年11月26日 23:31に投稿されたエントリーのページです。

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